170930(土) それぞれと二人で過ごすのは楽しくても三人そろうと不快な関係

こんにちは。

津村小太郎です。


金曜日の夜に、寮のときの無二の親友、Kの家に泊まりました。

海老名駅から歩いて十分のところにありました。

駅前にはモールや居酒屋があり、便利そうでした。

これまでに見たことのない数のコウモリが飛び交っていて、異様でした。

居酒屋に入って飲み、帰り道にコンビニでビールを買って、職場で入手したソーセージをゆでて家飲みをしました。

いつもKの元カノである僕の高校の同級生、寮での怠惰な日々やムービー制作等、及び人種差別的又は女性差別的な品のない冗談だけで会話が成り立っています

新規性のある話題としては、Kの取引先の会社がつぶれるかもしれないという話がありました。

いわく、ずっと前の担当者が相手にとって赤字となる契約条件を設定し、それが見直されずに現在に至っているとのこと。

資本主義の闇を感じました。

担当者は、自社にとってコストが増えるような条件見直しをすれば自分の評価が下がるため、気が進まなくても取引先に無理を強いつづけなければなりません。


土曜日の朝、横浜で地元就職のTと合流し、三人で万葉倶楽部(温泉施設)へ行きました。

KもTも話は合いますが、この三人の枠組は、自分が笑いのために搾取されるから嫌いです。

そこへ、Iが現れました。

僕は事前の打合せで彼を呼ぼうという話が出たときに、せっかくの休日に疲れるからやめてくれと頼んでいました。

心底、波長が合わず、嫌いな人間でした。

それを承知の上で、KとTが裏でIを呼ぶ手はずを整えていたのです。

苦手な人間が来ると分かっている場に参加するかどうかは、自分で判断する権利があると思っています。

しかし、あえて僕が嫌がると知っていて(しかも、彼に絶対的な非があるわけではなく、ただ合わないから僕が彼を嫌いなだけで、僕が合理的な説明に窮することを知っていて)、彼らはIを呼んだのです。

僕は帰りました。

苦手な人間が来たからというだけで帰るわけではありません。

上述の状況全体が嫌になって帰ったのです。

自分に心地よい行動を譲らなかった選択について、自分で自分をほめてあげたいと思います。

彼らにどう思われようと構いません。

どのみち僕は、官僚をやめて田舎で暮らすという、彼らが理解に苦しむであろう人生選択をするつもりです。

そのとき賛同し、応援してくれない彼らに合わせたところで、何の意味があるでしょうか。


Tと相互理解のレベルが低いことは、寮生活のうちに分かっていました。

Kについては、知的レベル及び冗談のセンス等が近いのは事実だったけれど、どこか志向の異なる人間だと感じていました。

それに、大学時代の「心地よい」距離感、あるいは、互いに本気で干渉することが決してない関係性には、どこかで物足りなさを感じていました。

Kとも訣別の時が来たのかもしれません。