180306(火)~180313(火) セネカ『幸福な生について』の段落要約

こんにちは。

津村小太郎です。

 

 

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

この本に収められている三篇のうち最後、『幸福な生について』を要約します。

まずは段落要約から。

 

誰もが幸福な生を送りたがるが、何がそれをもたらしてくれるかは誰も分かっていない。また、幸福な生を達成するのは容易でなく、道を誤れば目指す幸福な生からはどんどん遠ざかる。

それゆえ、われわれは、まずわれわれの目標を措定しなければならない。次には、目的地にもっとも早く到達できる道を見定めなければならない。その際、多くの人が通るからといってその道を選んではいけない。

 

幸福な生について論じる際、何がなすべき最善のものか、何がわれわれに永続的な幸福を所有させてくれるものかを問おうではないか。

 

幸福な生とはみずからの自然の本性に合致した生のことである。その生を手に入れるには、精神が

・永続的に健全であり、

・勇敢かつ情熱的であり、

・忍耐強く適応能力があり、

・己の肉体に関して過度に神経質ではなく、

・生を構築する事物を礼賛せず、

・自然の賜物を用に供する心構えである

必要がある。

 

最高善は以下のように定義できる。

・永続的な徳に喜びを見出し、偶然的なものを軽視する精神

・さまざまな事象に精通し、行動するに冷静沈着、かつ深い人間性と、交わる人々への気遣いをともなった不屈の精神力

また、幸福な人とは

・善きものと悪しきものが、善き精神と悪しき精神以外にない人

・立派で名誉あるものを信奉し、徳で満ち足り、偶然的なものによって有頂天になることも意気沮喪することがない人

・みずからがみずからに与えうる善きもの以上に大きな善を知らない人

・真の快楽が快楽を蔑視することである人

である。

われわれは自由を目指して脱出しなければならない。その自由を与えてくれるのは、運命の無視を措いて他にない。

 

幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である。幸福な生とは、正しく確かな判断の上に築かれた、安定的で普遍の生のことなのである。

 

幸福な人とは、未来の快楽を最高善として追い求める人ではなく、

・判断の正しい人

・現在あるもので満ち足りている人

・理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、みずからが関わる物事のあり方を受け入れる人

のことである。

 

快楽と徳は不可分だと主張する者がいる。善きものの始原はすべて徳に遡るから、彼らが善きものとする快楽も徳の根から生じるということであろう。しかし、快いけれども有徳ではないもの、有徳であるけれども苦しみを通してしか達成できないものをどう説明するのか。徳は快楽を欠くことがしばしばで、まして快楽を必要とすることなどない。

快楽はその本性が生々流転の動きにあり、確固としたものではない。

 

人は外的なものに毀損されず、征服されない人間でなければならない。自己のみを賛美する人間でなければならない。また、理性には、感覚から最初の情報を得、外的なものに向かわせ、再び自己へと立ち返り、感覚をも自己をも統御する統率者となるようにさせなければならない。最高善とは、精神の調和である。

 

徳は快楽を与えてくれはするであろうが、その快楽ゆえに徳が求められるわけではない。最高善は、最良の精神の判断そのものと、その精神の恒常的なあり方の中にある。この最良の精神が自己充足し、自らを自らの引く境界で囲い終わったとき、精神はそれ以上のものを必要としなくなる。

 

快楽な生は徳が随伴しなければ手に入れられないと言っているではないか、という反論がありうる。だが、快楽には邪悪が満ちあふれ、精神そのものも種々様々な多くの歪んだ快楽を積み重ねていく。徳は精神の歪んだ快楽をすべて振り払い、快楽を受け入れる前に吟味し、是とした快楽でもそれを抑制することに喜びを覚える。

私は快楽のためには何もしない。

 

十一

快楽に支配される人は、労苦や危険や貧窮など人間を取り巻く騒がしい脅威の数々に抵抗できない。死を直視することに耐え、苦痛に耐えることは不可能だ。

快楽に支配される人は、快楽に多くの恥ずべきことを唆される。「快楽は徳と結びついている」と言うのかもしれないが、善きものであるために監視人を必要とするような最高善とはいかなるものか。それに、徳は自分が従う快楽をどう支配するのか。

快楽にとりつかれた人間は、幸せであるはずがない。なぜなら、彼らが喜びを見出しているのは善きものではないからだ。

 

十二

賢者の快楽は抑制されたものである。賢者の快楽は招かれてやってくるわけではなく、また、敬意をもって遇されることも愉楽をともなって受け入れられることもないものだからである。

相容れない徳と快楽を結合させようとするのはやめるがよい。その悪しき教えが最悪の人間どもをいい気にさせているのである。

 

十三

エピクーロスはストア派が徳の戒律とするもの(自然に従うこと)を快楽の戒律にしている。しかし、エピクーロス派を名乗る者は、エピクーロスから聴いた教えどおりの快楽ではなく、自己流の快楽を追い続け、それが教義に適うものという謬見を抱き、大っぴら奢侈にふけるようになる。

徳を先に立たせて歩ませれば、一歩一歩、足取りは着実だ。また、過度の快楽は害あって益がないのに対し、徳は何か過度なものを危惧する必要はない。徳そのものに節度があるからだ。

 

十四

徳を先に立たせても、われわれはなお快楽を覚えるだろうが、快楽に主導権を引き渡すことはない。快楽に支配される者は、徳を失い、快楽が欠乏すれば苦しめられられ、充満すれば窒息する。

 

十五

徳と快楽を融合させてこれを最高善としよう、と言う者がいる。しかし、そうすると最高善は運を必要とすることになる。われわれは、死すべき人間に生起することごとくを忍受し、われわれの力では避けえぬことに動揺しないと誓いを立てる義務がある。われわれは神に従わなければならない。神に従うことこそが自由である。

 

十六

したがって、真の幸福は徳に存する。徳が誘い勧めるのは、徳の成果でも悪徳の結果でもないものを善きものとも悪しきものともみなしてはならないということ、悪しきものに直面するときも善きものを享受するときも常に不動であることである。その見返りに、徳は人を、何事も強制されず、何ものをも欠かず、自由で、安全で、無傷な存在にしてくれる。より高きところを目指して進み、余人より高く上昇した者は、いまだ自由ではないにしてもすでに自由同然なのである。

 

十七

哲学に向かって吠え立てる者たちの誰かが、例の習いのように、「なぜお前は自分の現実の生以上に威勢のいい話をするのだ。お前はなぜそんなに贅沢をしているのか。」と言ったとしよう。私の答えはこうだ。「私は賢者ではないし、将来も賢者にはならないであろう。だから私に何かを要求するにしても、悪人よりはましな人間であれ、と要求してもらいたい。私には、日々、自分の過ちを責め、自分の欠点から何かを取り除くことができればそれで十分なのである。」と。

 

十八

君は言う、「お前は、言っていることと現実の生き方が違うではないか。」と。私が語っているのは徳についてであって、私自身についてではないし、私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである。猛毒を含んだ君たちのその悪意の脅しをもってしても、私は怯むことなく最善のものを追い求めることをやめまい。

 

 十九

君たちは、何か非凡な長所によって偉大とされる人たちの生き死にをとやかくあげつらう。しかし、徳を追い求める彼らが貪欲で、好色で、野心的な人間だとすれば、君たちはいったいいかなる存在だと言えばよいのであろう。

 

二十

「哲学者は言っていることを実践しない。」だが、現に哲学者は言っていることや心に抱いたことの多くを実践している。彼らの言行が完全に一致しなくとも、彼らの善き言葉や、善き思想に満ちた心根を、また、壮図に敢然と挑む姿を、敬意のまなざしをもって見上げるがよい。

 

二十一

財産、生及び健康等を軽蔑すべきだと哲学者が語るのは、「もつな」という意味ではなく、もつにしても「失う不安を抱くな」という意味である。

 

二十二

賢者にとって、貧しい境遇にあるよりは、裕福な境遇にあるほうが、精神を開発するためのこの資源が大きいことに疑問の余地はない。

 

二十三

哲学者に金をもってはならないなどという禁令を出してはいけない。哲学者が豊かな財をもつことはあるだろうが、その財は不正に得たものではなく、得るときも支払うときも名誉あるもので、悪意をもった者以外誰も不満を漏らしはしない。

賢者が富を贈与するときは、誤った贈り物は恥ずべき浪費であるから、正しく、もっともな理由で、善き人々に贈与するであろう。

 

二十四

無駄にしないように思慮をもって与えようとするかぎり、贈与という行為には大きな困難がともなう。

哲学を志す学徒が立派に、果敢に、情熱的に語ることを、君たちは聞き誤ってはならない。英知を志す学徒とすでに英知を獲得している人は別である。彼に言行を一致させよと要求するのはナンセンスだ。一方で、人間的な善の極みに到達している人はこのように言うであろう。「君が自分より優れた人間について判定するのをみずからに許してよい理由はない。君たち悪人が私を気にくわないと思うことこそ、私が正しい人間であることの証だ。

 

二十五

富は価値があるものだという認識において君と私は一致しているが、しかし、富は善ではないし、君と私の間で富に対する態度は異なる。私は金銭の多寡によって幸福が増減するとは感じない。幸運不運によって幸福が増減するとは感じない。なぜなら、予めあらゆることを想定して備えているからだ。だが、苦しみを抑えるよりは、喜びを抑える生であるに越したことはないと私は思うのである。」と。

ソークラテースはこう言うだろう。「困難なものに対抗し、運命を克服しようとする徳目は皆、上り坂を登り、格闘し、苦闘するものである。寛容や節度、温厚といった徳目は下り坂を行くものである。前者より後者を常用できるに越したことはないと私は思う。」と。

 

二十六

「では、われわれ二人とも富を所有したいというなら、愚者の私と賢者のお前と、どこが違うのだ」という反論があるだろう。天と地の差がある。富は、賢者にあっては所有者である賢者に隷属するが、愚者にあっては所有者である愚者を支配するからだ。賢者は今あるものに喜びを見出しつつ今に生き、未来に対しては、それが与り知らぬものとして、不安がない。

ソークラテースはこう語るだろう。「私が何よりも固く心に決めているのは、君たちの意見に合わせて自分の生き方を曲げるような真似だけはするまいということだ。徳を憎み、徳を攻撃することは、善きものに到達する望みを放棄することを意味する。徳を尊びたまえ。」と。

 

二十七

ソークラテースが例の牢獄からこう呼ばわっている。「できれば、善き人々を称えるがよい。できなければ、放っておけ。

なぜ、自分の悪徳を省みず、他人のあら探しをしているのか。およそ人間の世界は、君たちが口舌をせっせと働かせて自分より優れた人々を誹謗中傷していられるほどの暇を君たちに残しておいてやれる状況にはない。

 

二十八

君たちは、君たち自身や君たちの所有物を奪い去ることになる嵐が君たちのすぐそばまで近づいていることに気づいていない。…